『鍵』は安藤千草の存在
「誰も恨みたくなんてなかった」
誰だって望んで不幸になんてなりたくはない…。
不倫相手の子供を誘拐してまうという、実際に起きた事件に着想を得て生み出された作品。
当の元になった事件とは展開と顛末を異にする物語なんだけど、そこには当然意志があって、それこそがこの作品の意義なんだと感じた。
その意義をこの作品に与えているのは安藤千草(小池栄子)の存在なのだと感じました。
小池栄子の演技も素晴らしかった。
他にも演技の素晴らしい役者さんもいたけど、彼女が頭ひとつ出てたかなという印象をうけました。
「八日目の蝉」
最初は一人だけ取り残されることへの孤独や不安を表現する喩えとして用いられていたこの言葉が、後半には希望や豊かさを表現する喩えとして用いられるように変わる。
言葉は同じなのに?
どちらもほんとなんだと思うのよ。
結局その時の言葉を捉える心情の問題なのだから。
だからこそネガティブに受け止めていた言葉をポジティブに受け止められるようになったその変化が見ていて嬉しくなる。
そしてこの変化の源、きっかけを作り出しているのが千草の存在なんだと思うわけです。
千草がいなければ、恵理菜の心はどこかで折れていたかもしれない。
↓ネタバレ
父と同じような男を選び、惰性のように日々をやり過ごしていた恵理菜、本気で生きることをどこか諦めているような虚な日々。
そこに不倫相手の子供を身籠るという負のスパイラルの核心のような出来事が起きてしまう。
不倫相手を試すかのようにもし私が妊娠したら?の問いかけ。
案の定中絶を仄めかされる。
その時恵理菜の中で何かが壊れたか、或いは生まれたのかもしれない。
男との訣別を決意する。
この決断が結果的には恵理菜が第二の希和子にならずに済んだもう一つの理由だったんだと思う。
彼女自身同じことを繰り返すことへの嫌悪感を顕にするのだけど、実際には意気とはうらはらに不安と苛立ちの方がずっと大きくて、それが後の不安定さにつながっていくんだと思う。
今まで父からの経済的な支援を拒んできた恵理菜だったのに、出産の費用を無心する為に実家に帰る。
ただ、やり場のない苛立ちをぶつけたかった。
傷つけて、自分も傷ついて。
そんなやり方でしか自分の感情を表現できない。切ない…。
その不器用さはどこから引き継がれたのかしらと思いを馳せる。
けど、そんな恵理菜にただひたすらに真っ直ぐに向き合って受け止めていくのが千草で彼女自身もコンプレックスと傷を負いながら、それでも恵理菜に寄り添っていく。
寄り添うというより、千草は恵理菜を必要とするのよ。
エゴではなく純粋に彼女を必要として、それと同じくらい彼女に必要とされたいと思っている。
そんな二人の関係性が愛おしくなる。
人は誰かに必要とされて初めて自分の心の居場所を見つけられるのかもしれない。
一方薫(恵理菜)を誘拐し、いつ捕まるともしれない逃亡生活のなか、常に不安と成長する薫と一緒にいられる幸せの両極の感情の間で揺れ動く希和子。
薫を誘拐して以来常に不安と焦燥の中で怯えながら暮らしていた希和子が逃避の末辿り着くのが小豆島という設定で、島独特の風景は素朴で美しくとても輝いてい見える。
その輝きに呼応するように一時の安堵と幸せな時間過ごすことができる結果的には唯一の場所となる。
それを表現するのにこの美しさと素朴さは欠かせなかったのだと感じる。
最後に写真館で記念撮影するシーンがある。
わざわざ「家族写真」を撮りたいと言って店を覗く希和子。
もう、二人の未来が見えていたのね。
本当は一刻も早くあの場を離れたかったはずなのに…。
たとえ身勝手な手段だったとしても、心から薫(恵理菜)のことを愛してしまった、その姿を最後に「形」にしたかったんだろうな…。
泣いているのか笑っているのかわからないあの表情がやり場のない感情の波となって観ているこちらの心に響いてくる。
恵理菜のお腹の中にいる子はきっと幸せになってくれる。
不器用で頼りないけど、優しいお母さんが未来で二人も待ってる。
「八日目の蝉」
私もこの言葉をポジティブに受け止められる人でありたいなと。